学校給食問題といえば、俺も給食で問題を起こしたことがある。
あれは俺が小学二年生、7歳のときだ。
4時間目の授業が終わり廊下に出ると、そこには給食室からエレベーターで届けられた巨大な給食ワゴンが並んでいた。
それを見た俺と中沢君は、給食当番でもないのに気を利かせて、ワゴンを教室へ運ぶことにした。
それをどちらが言い出したのかは覚えていない。記憶にあるのは、二人とも悪意など1ミリもなかったということだ。
「二人はえらいな。みんなも彼らを見習いなさい」担任の望月先生にそう言ってもらえることを想像し、俺たちはニコニコしながら仕事にうつった。
ワゴンに二人の小さな手がかかって5秒もせずに事件は起きた。
渡り廊下のつなぎ目の出っ張りにワゴンのタイヤがひっかかり、おかずが入ったバケツがワゴンから滑り落ちてしまったのだ。ビーフシチューとフルーチェ風デザートの海のできあがりである。
もちろん怒られた。ものすごく怒られた。極悪な悪事を働いた時にしか連行されない校長室にも連れていかれた。
中沢君は途中から声をあげて泣きはじめた。
一方、俺は泣くどころか怒っていた。もちろん1回は謝った。ごめんなさいと頭を下げた。だが中沢君のように泣きじゃくる気持ちには1ミリもなれなかったのだ。
理由は簡単だ。
俺と中沢君は「良かれと思って」ワゴンを移動させようとしただけであり、けっしていたずらで給食をぶちまけたわけではなかったからだ。
いわば事故。
いわば不可抗力。
それも小学2年生の子供である。
大人が事故で他人をケガをさせたとかそういう話ではないのだ。
だから一方的に怒鳴り散らす先生に対して俺は無性に腹が立ったし、泣く必要など1ミリもないと感じた。そして「中沢君、しっかりしろ!」と心の中で檄を飛ばし続けた。
その結果どうなったか。
担任の望月先生をはじめ、校長室に集まった主要人物の全員が中沢君に対して「ちゃんと反省しているね」などと優しい声をかけたのに対し、俺には「どうしてお前は反省しない!中沢君を見習え!」と怒り続けたのである。
7歳の俺はそのときに思ったね。
「こいつら全員バカだ」「こんなところで幼児をつるし上げてプープー言っている暇があったら、全校から1クラス1食分ずつ、あまったおかずをかき集めてこいよ。今ならまだ間に合うよ」と。
だがあいつらはそれをせず、結局俺と中沢君は教室の前に立たされ、お盆の上にパンと牛乳だけをのせたクラスメイトに対して謝罪をさせたのだ。
「僕たちのせいでご飯がなくなってしまいました。すみませんでした」
望月先生に強要された言葉を吐き終わり横を向くと、中沢君はまだ泣いていた。俺は床に流れ落ちる彼の涙を見ながら「ああ、腹減った」と思った。
この話のポイントは何かって?
それはこれだ。
↓
二つある。
- 自分にとっての「正しさ」は他人の非常識になり得る
- その場で一番強い人が喜ぶ反応をしないと、面倒くさいことになる
どちらも今でこそ当たり前の話だけれど、7歳の俺にはとても新鮮な気づきであった。
そしてとくに後者だが、これってさ、俺たちのビジネスにもすごく重要な話だと思わない?
要はさ、ビジネスで一番強いのはお客さんなわけだけれども、5年たっても10年たっても稼げない自営業者を見ていると、それを理解していない人が非常に多い気がするんだよ。
要はお客さんが何を求めているかよりも、自分が何を売りたいか、どんな風に売りたいかにこだわっちまうの。
もちろん望月先生が俺に怒鳴り続けたように、お客さんだってそんな自分勝手なビジネスにはめちゃくちゃ腹が立つから、財布をひらこうなんて死んでも思わないんだよね。
だって自分の欲求をちゃんとみたしてくれる会社が他にあるわけだからさ。どうして勝手な自我を押し付けてくる変な野郎に金を払わなきゃならねえんだ!って、誰だって思うじゃんか。
思わない?
だから(本心がどうであったにせよ)中沢君がやったように、お客さんが期待すること、喜ぶことを、本気で「演じて」差し上げることが、稼ぐためには重要ってことだよな。
とういことで今日のまとめ。
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商売に自分の正しさを持ち込んではいけない。
俺たちの仕事は、財布の主にとっての正しさを演出してあげること。
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オッケー?
売る側にとっての正義も趣味嗜好も欲求も、お客さんにとってはただのクソだからな。
とにかく重要なのは、売る側が自我を捨てて、自分のお客さんの感情に寄り添うビジネスを作ること。彼らの理想の世界を演出してあげること。
これだけだ。
わかるよね?
そして「お客さんの理想の世界」を演出して稼ぐといえばこの講座だ。
応援してるぜ。
清水